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聖コロマ教会 (アンドラ) 懐かしの中世、あの町あの村編


    )DSCN0155アンドラシリーズ(刻印.JPG


     この中世の教会には、ロマネスク教会訪問を開始した

    始めのころはるばる訪ね記億がある、懐かしい教会です。 

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サン・テイアゴ・デ コンポステラ巡礼(スペイン)


 数日前、テレビの放送でサン・テイアゴ・コンポステラ (スペイン)への巡礼を放送していました。

 自分もいつかは歩きたいと思っていたが、実現しないままに今に至っています。

 そういうこともあって興味深く視聴しました。特に教会に到着してからの部分に注目して観たものです。

 遠路はるばるウクライナから来たという女性を追っていました(勿論、歩きはフランスあたりからだとおもいます        がそれでもかなりの距離です。コンポステラへの巡礼は、よくTVで取り上げられていますが、今回のドキュメント はなかなか優れた渾身のドキュメントでした。

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カタロニア・スペインのあるロマネスクの風景


 DSC_0197最も好み中世の村.JPG


 、昔、遠路、スペイン・カタルーニャの片田舎に鄙びたロマネスクを

  訪ねたをの覚えています。残念ながら、ロマネスクの名称は

  記憶の外に行ってしまったが、新鮮な印象があります。


  これを切っ掛けにカタロニアのロマネスク訪問の切っ掛けになった

  気がします。

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モンセラト修道院 (スペイン・カタルーニャ)

CIMG5220.JPG


 この修道院には昔、カタルニアのバロセニアから訪ねました。

 一風変わった山の中にある修道院である、残念ながら、時間の

 関係で「黒衣の聖母」は見ることが出来ませんでした。いつか訪ね

 たいと思っていましたが、今持って実現していません。



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サン・タヴアンタン教会(仏)


 DSC_0582 up.JPG



  「山の傾斜にへばりつくようにかたまっている 小さな村がある。サン・タヴアンタン教会は、

   その斜面に抗して垂直に塔を立てているのである」(注)


  この村を訪ねたのはかなり昔で、この村にあるただ一つの小さなホテルに泊まった

  記憶があります。


  まさにロマネスクの教会があるのにふさわしい佇まいの村だった思いでの村である。


  (フランス・ロマネスク  饗庭孝雄著 山川出版社)

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サン・ミッシェル・ド ・キュクサ修道院 ルション(仏)


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 vcm_s_kf_repr_884x587.jpg懐かしきロマネスク①ピレネーノロマネスクサン・ミシェルド・キュクサ.jpg


   昔、訪ねた懐かしい修道院です。ピレネー地方は何回も歩いた思い出深い

  ところ。今、懐旧の思いに耽っています。


  「カタルニアのみならず、ㇽシオン地方に名をとどろかせたオリバのてによる

   ものである(注:フランス・ロマネスク 饗庭孝雄著 山川出版社)


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石像 「 巡礼者」


CIMG6619 巡礼者の石像.JPG


 ただ一つ、手元にある巡礼者の石造である。

 いつ頃のものなのか、分からない。

   

 

   右手に杖と左手に袋を持っているから、

 巡礼者の作品であることは間違いない

 と思われます。


   追記

 「わが国には西国33か所の観音霊場まいりや

 四国は八八か所まいりがあり、イスラム教には

 有名なメッカへの巡礼があるように、西洋の

 キリスト教世界にも古くから巡礼がおこなわれた、

 記録によって知られるキリスト教最初の巡礼者は、

 教会史家エウスビオスが記しているカッパドキア

 の司教アレクサンドロスである。彼は紀元212年に

 イェルサレムに巡礼したという」。

 この資料によると随分古くから、巡礼が行われれ

 ていたことが分かります、

  (注:「カテドラルのある風景」 尚樹啓太郎著

      (東海大学出版会)

 

 

 


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オスピス・ド・ボーヌ (仏)


 line_334264928806526 (002)仏ブルゴーニュの建築.jpg



 中世フランスの施療院として設立された。

 こういった施療院はいくつかあり、他にも訪ねたことがあります。

 子供が訪ねたということで、画像を送ってくれた。


 随分前、自分も訪ねました。屋根の色が印象的だったのを記憶

 しています。


 確かボーヌは有名なワインの産地で知られている。

   (注:尚、この建物は歴史的建造物に指定されたいます)

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 トルコの歴史 (下)


  この本「トルコの歴史」(下)(注:を紐解いてみるとコーヒーの話が出ています。


  「第三節」 コーヒー・ハウス 文化とその西方への伝播

  コーヒーのイスタンブルへの伝播

  エチオピアあたりが原産地のコーヒーが、黄海を渡ってイエメンに伝わり、それが

  最初は薬用として飲まれ始める。以下略、、、嗜好品としての性格を強め、16世紀

  の最初10年までにイエメンからヒジャーズ(メッカ、メッカのあたり)、カイロにさらに

  次の十年でシリアにもひろがった。イスタンブルでは、ひとりはダマスカス、いまひとり

  はアレッポの二人の有力な商人が1551(1554年説あり)にイスタンブルに最初

  のコーヒー・ハウスを開いたという説があると同時に、レヴァント貿易のいまひとつの

  幹線路である黄海に沿って北上し、カイロからイスタンブルに至る道を経由(以下略)

  興味深いく綴られています。

  最初は薬用だったという興味深い話ではある。

  今では、そとにでれば、コーヒーといえば喫茶店などで飲むのが当たり前の話だが元はと

  言えば原点はそこらあたりだったのですね。


  



   


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トルコの歴史(上)追記


  

      さて、トルコの歴史(上)を広げ、巻頭の部分を読んでみると
  今、ヨーロッパとアジアからなる旧大陸(ユーラシア)の地図を広げてみも、そ
    るとアナトリアは、ユーラシアの東北部にある広大なオアシスと草原地帯に連なってれは 、

  が、西アジアへと移動した人口動態の結果であり、かつ純粋な遊匈奴・突厥などモンゴル高原から中央ユーラシアにかけて展開した騎馬遊牧民の一部牧民から定住民へという

  生活形態の変化にもかかわらず、文化的な連続性を濃厚に維持しつつ、、かつ移住したさきの

  文化ををも積極的に取り入れ、あるいはこれに影響を与えて洋の東西に展開した壮大な歴史

である。したがって、その歴史は、現在のトルコ共和国が存在するアナトリアという一国・位置

地域の歴史でなく、ユーラシア全体の各地域と相互に影響を及ぼし合いながら営まれてきたので

ある。その結果、アナトリアの歴史は、中央ユウラシアの伝統、イスラムの伝統、そして地中海

世界の伝統が渾然一体となって展開した場である。

  (以前、遊牧民については、取り上げました)  

   

  

       


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